受難の世代?
こないだ、アーティストの村上隆氏のツイートに次のようなものがあった。
ゆとり教育なのか、俺達世代の親の過保護なのか、自分自分と哲学者のように自分を思考し続ける若者達への対処が本当に大変。自分教に入ってるため洗脳を解くのは困難を極める。
— takashi murakami (@takashipom) April 25, 2012
@takashipom その若者とは夏目漱石のことでしょうか。
— Kawai M (@piecesofKAWAI) April 26, 2012
思わずリプライしてしまった。
別に皮肉ではなく、大真面目で。若者を叱るのに、その自分勝手さゆえに起因するものと、今の若者が時代的に直面する課題に起因するものをある程度区別して表現しないといけないんじゃないか。そうでないと、当の若者にはたぶん届かない。
でも何か微妙に大人げないツイートだったなと自省し、リプライはやめて次のようにツイートした。
自分が主体となることと、自己中心的・自分勝手になることとは違う。村上さんの言っているのはおそらく自己中心的すぎる若者が多いということか。近現代の病理というか、日本社会の同調圧力から線を引いて主体的になろうとするほど、自分というものを考えざるを得ない。
— Kawai M (@piecesofKAWAI) April 26, 2012
まったく、今の時代の若者はたいへんだ。就職しようとしても狭き門で、入ったら入ったで、上のポストはたくさんの上の世代でつかえている。あるいはこないだのNTTのニュースみたいに、定年延長のコストをまかなうため30代の給与が切られたり。あるいはシャープみたいな大企業に内定が決まっていた若者の親の世代は大喜びしていただろうが、いつの間にやら業績不振でほとんど買収同然、2000人配置転換ということになっている。それだけでなく、国の借金でも年金でも、上の世代のつけを若者は強制的に払わされる……というようなことが多々あり。
経済だけでなく、原発問題の方向性さえろくに定まらず、政治はグダグダ……。
こうした諸問題を放置してきた上の世代が、今の若者ばかり自己中だとは責められまい。しかし、親は過去の成功体験から「普通」であるよう子供に求め、カイシャは抜け目なく「普通」の社員を求める。
とはいえ、まわりが求める「普通」とは都合のいい「普通」像にすぎないのだ。
終わりのはじまり
若者が世間の提示する道を走ることだけ腐心すればいい時代は終わった。
もはや「普通」を志向しても、リターンが極端に少ない。払い続けてもろくに返ってこないであろう年金のように、報われない感が強い。
そもそも、何が普通であるかもあやふやになりつつある。価値は相対化され、説得力ある絶対的な正しさなど誰も持ち得ない。
外部の相対的価値が急激に変遷していくなかで、拠り所は内在化せざるを得ない。
自分が何に幸せを感じ、何が大切なのか。何が好きで、何が嫌なのか。
結局、自分が価値あると思うように行動していくしかない。
ところが時代が変わっても日本人の集団主義はおいそれとは崩れない。
その同調圧力から逃れて行動しようとすればするほど、自分とは何か、自分は何者なのかという問いが立ち昇ってくる。それまで全体性ばかりを意識してきた日本人にとって、それは難問だ。ロンドンにいた夏目漱石だって、西洋的自我の強固さのなかでノイローゼになった。
形式的な自分探しが空疎な時代になったとはいえ、それでもなお自分とは何かを考えねばならない。新たにバッティングや投球フォームを作りなおす過程のように。それまでは呼吸するようにボールを投げたり打ったりしていても、その動作を一から作り直すには相当な意識的作業が必要だ。その苦しみは、ゼロから作る者にしかわからない。
しかし、そのプロセスはまわりからただの自分勝手と取られたり、未成熟や独善的に映ったりする。それで、パフォーマンス、子供、親不孝、ノマド、くそニートなどと叩かれる。本人だって、それが果たして主体的ゆえなのか、それとも単に自意識過剰の甘えなのかわかっていないだろうし、ましてや的確に現状を表現することなんてできないと思う。
はずれるエネルギーと、しがみつくエネルギー
以前は既存のレールをはずれることにものすごいエネルギーが必要で、若者たちはバイクで暴走したり、学ランの裾を長くしたり、髪を染めたりと、必死で大人の価値観の押し付けに疑問を呈した。あるいは安保にかこつけて大学で石を投げたり。それが高じて社会問題にもなった当時と今は隔世の感がある。現代は若者がバイクに乗ろうとどんな服装や髪型をしようと「個性」であって、問題にもならない。石を投げる対象もない。
逆に今は、道をはずれないことの方がエネルギーが必要なのかもしれない。道といってもあるのかないのか幻想なのかはっきりしない道だ。外れるのは簡単だけれど、今度は360度荒野がひろがっていて、どこに進めばいいのか見当がつかない。
だからといって、まわりの顔色ばかりをうかがう必要もない。
たぶんいつの時代でも、若者は世間知らずであるがゆえに自己中心的で、それが周囲の気に障る。あるいは時代遅れの年配者からすると理解不能。
意見されたら素直に耳を傾ければいい、ひとつの経験談として。でも、都合のいい人間になる必要などない。誰も未来など見通せないのだから。まだ見ぬ未来に責任を持てるのは自分だけだ。自分の人生を生きられるのは自分だけ。
結局は勝てば官軍。でも、どうすれば勝てるかなんて誰にもわからないのだ。ただ後悔しないために大切なのは、どこを進むべきかではなく、その道を自分で選ぶことではないだろうか。
「普通」は終焉した。腹をくくって荒野を進もう。
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為念:これは村上氏への批判エントリではない。
そもそもぼくが村上氏をフォローしたのは、日本の大学の美術教育システムのどうしようもなさを憤っていた氏のツイートを目にしたのがきっかけ。ぼくは美術に関してはよくわからないけれど、既得権益層・組織の老化と機能不全は日本全体の問題だと思っていて、その部分は美術界も他も同じなのだろう。
7/17追記
「褒めて伸びるタイプです」とか、履歴書に書いてくる阿呆が、後を絶たない。
— takashi murakami (@takashipom) July 16, 2012
なるほど。これはあかんわ。
◎関連エントリ
本「中村元対談集3 社会と学問を語る」
村上氏のカタールでの五百羅漢図についてニコ動を観たときの感想も最後に少し
地球規模の、自分流
ネットを捨てよ、外へ出よう