AI後の世界1-サピエンス全史から考える生き方のキモ

AI後の世界1-サピエンス全史から考える生き方のキモ

2017年8月26日

サピエンス全史を読んで考えたことを先日エントリした。

「サピエンス全史/ユヴァル・ノア・ハラリ」から何を読み取ったか
「サピエンス全史/ユヴァル・ノア・ハラリ」から何を読み取ったか
読書は、低コストで知識を得られる圧倒的なすばらしいツールだ。 でも、何を自分が考えたのか振り返らないと、ただ「面白かった」というぼんやりとした感想で思考が止まってしま

今回はAIに絞って、今後の社会と生き方について考えてみた。

虚構によって結びつく人類と、個人の幸せ

サピエンス全史によると、虚構によって人類は結びつき、社会を発展させてきた。虚構を信じることで、ホモ・サピエンスは全体としてのパワーを増大させ、霊長類の頂点に立った。でも、それが個人を幸せにするかは別の話だ。

  • 会社(という虚構)が発展するよう命じられる仕事が、自分にとって苦しく感じられる。
  • 家(という虚構)の存続が重視され、個人(女性)の人権(という虚構)がないがしろにされる。
  • 国家戦略(という虚構)の事情ではじまった原子力発電所のために、家をなくし家族がバラバラになる。
  • 国(という虚構)のために死んでこいと言われて家族を残して出征し、特攻する。
  • 一流企業(という虚構)に入ったのに、多忙のあまり心身のバランスを失う。

こうした例は枚挙に暇がない。

AIの場合

ではAIはどうなのだろう?

病気の診断等、多くのデータから解を導き出すことに優れているという。
データ解析だけでなく、自己学習もして、すでに将棋などの世界では人間を超えている。
それが他の分野にも適用されていく。

ところがそんなメリットの一方で、近い将来、たくさんの仕事がなくなるという。

そんなAIに関する予測を聞いて「そりゃバラ色の未来だな」とAI世界を夢見ている人がどれだけいるのか。
それなのに、いったい誰が推し進めているのだろう?

その正体は、われわれが形作った社会システムだ。

システムは個人の幸せを考えてはくれない

サピエンスのこれまでの革命がそうであったように、システムは個人の幸福など考慮に入れずに自らを最大化していく。
たとえば科学革命は集団にとって善だった。
だから、核兵器の反対運動は起こっても、車の使用を禁じよという運動は起こらない。
核戦争よりも車や排気ガスで亡くなる人のほうが多かったというのに。

そうした矛盾をはらみながら、社会全体の発展と個人の幸せを混同させながら、科学は発展してきた。
狩猟採集社会から農耕社会へ移行したときがそうであったように。
資本主義が資本主義を拡大させてきたように。
個人はその大きな分業システムの一部を担っている。

ところが、全体と一体化した個人の行動が必ずしも不幸せに結びつくとも限らない。
先の例とは逆の結果となるケースもまたたくさんある。

・会社を発展させるための仕事によって、やりがいと幸福感が感じられる。
・「男を生め」というお家の存続のプレッシャーに応えて評価され、女としての生きがいや幸せを感じる。
・国家の事情ではじまった原子力発電所のために、仕事を得て家族に感謝される。
・国のためにと特攻した息子によって、村での評判があがる。
・いい会社と信じて入り、忙しさを乗り切って能力を発揮して評価される。

これはもう倫理的に良い悪いではなく、結果的にそう感じたというだけのこと。
そして、結局組織やシステムは、個人の幸せを担保してはくれない。

AIもまた、個人の幸福など考慮せずに、システムがシステムを拡大させていく。するとそこはどんな世界になるのだろう。

AI後の社会

人間の判断が、じょじょにデータに委ねられるようになれば、データによって人間は操られ、動かされるようになる。そして、意思をないがしろにされる。なぜなら、データの方が自分よりも正しく、そのデータが方向を示してくれるから。

われわれがシステム導入を決断した時点で、それはフローをシステムに委ねたのと同じことだ。

「AIがこっちが正しいって言ってるんだからこっちだ。」
「AIに従っておけば間違いない」

そうやって、AIシステムが「常識」を作り、人々を動かすようになる。
人々はパターンのなかに閉じ込められ、データに操られる。
そのとき、人間は考えることをやめるのだろうか?

それでいいならば問題ない。
でも、その判断に異を唱えたいとき、それが嫌なとき、人々はどうするのだろう?
また、AIを使いこなす者と使いこなせない者との圧倒的なパワーの差が境遇の格差をひろげるとき、その断絶を埋める手段は生まれるのだろうか。

情報に家畜化される人々

農耕社会になって、狩猟採集社会よりも個人が幸せになったわけではなかったとハラリはいう。
でも後戻りができなかった。狩猟採集社会の記憶は薄れていくし、狩猟採集にもどったとしても数の論理で敵わなかった。
農耕という、生きるための手段に操られて、サピエンスは図らずも社会を変貌させた。ハラリは、小麦が人を家畜化したと表現している。
家畜化された人は、個人としては明らかに毎日が苦しくなっても、そこから抜け出すことができなかった。

AIも同じで、情報が人を家畜化してしまう。

まず嫌なことははっきり意思表示する

ぼくたちは、自分と自分の幸せを見つめなおし、社会にフィードバックしていく必要があるだろう。
AI時代はそれもAIが汲み取ってくれるんじゃないかって?

いやいや。

ハラリの述べている重要な点は、サピエンスは今後、神のごとくなりたい自分になれる、自らを設計して進化の方向を決められるようになるということだ。けれども、自分の幸せが何かをわかっていないサピエンスは、その方向を決められるのかという問いかけ。

(今のところ)AIは自分という個の幸せを勘案してくれないし、システム全体のなかで個人は犠牲になりやすい。そして、その方向に異を唱えられるのは個人だけだ。
何が自分にとって大切なのかを見極めなければ、全体のシステムにどんどん流されていくしかない。

我慢せずに、嫌なことは嫌と叫ぼう。
不快な虚構から出て別の虚構へ移る勇気を持とう。
どうせほとんどの社会システムは共有された虚構だ。

全体のシステムに組み込まれながら意思表示せずに生きるのは、病院で意識なく意思表示できないまま管につながれて生き続けるのと似ている。