社会の包容力―紛争からの脱出曲―

ポジティブ教の流布

最近は下火になったようだけれど、一時期「ポジティブ」という言葉がやたらもてはやされた。本屋でも、ポジティブシンキング系の自己啓発本がいくつも平積みされた。ぼくもたくさん読んだ方だと思う。

そして、人物を評するときもその言葉がよく使われるようになった。何にたいしてもポジティブだとか、ポジティブな生き方をしているとか、逆にネガティブな奴だとか。「ネアカ」「ネクラ」という言葉があまり使われなくなり、その代用という感じだったのかもしれない。

ポジティブがいいと言われると、表立って異議をとなえる人などそういない。たしかに仕事上では大切な考え方のひとつだろう。どんな職場でもたいてい、何でもかんでもケチをつけるような輩がいて、もっともらしく反対意見を言う。よりよいものにするためなら悪くない。ただ、よく聞くと感情論に収まってしまい対案もないとなると、物事が進まない障害でしかない。だからポジティブ思考、というのならわかる。

かといって、それが行き過ぎてプライベートな心のなかにさえそういう感情を許さなくなるのは、あまりいい傾向ではない。

カンボジア・アンコール/遺跡を覆う巨大樹/photo by Shigeru Nanaumi
カンボジア・アンコール/遺跡を覆う巨大樹/photo byShigeru Nanaumi

 

紛争からの脱出

ぼくが97年にカンボジアを旅行していたとき、紛争が起こった。ロケットランチャーを抱えた兵士が外路を駆け、砲撃音が街中に響き渡った。民間にも多数の死傷者が出た。日本人も一人亡くなった。空港設備は破壊され、民間機での脱出はかなわなくなった。

旅行者は武装警備員を配した高級ホテルに殺到し、そんなホテルのロビーは部屋を取れない人間であふれているという。フランス政府などはチャーター機をタイに待機させたりと対応が素早かった。しかし、日本ではこの期に及んで自衛隊派遣の是非について国会で議論がなされはじめる始末だった。

そうした状況のなか、ぼくのいた安宿でも、事実かどうか確認しようのない様々な情報が錯綜していた。なかでも、ポル・ポト派が反撃の機を狙ってプノンペンに続々と集結しているという話は、ほんの20年ほど前に起きた100万人とも200万人とも言われるポル・ポトによる大虐殺の記憶と相まって皆を慄然とさせた。国外へは出られない、すぐ外ではトンパチしている、さらにポル・ポト派が来るという話では、まさに八方塞がりだった。

当時、残された唯一の国外脱出方法はベトナムへの陸路越境だった。紛争勃発の当日にたまたまベトナムビザを手に入れていたぼくと友人は、それを試みることにした。しかし、国境まで行ってくれるタクシーがあるのかわからないし、途中で襲われるかもしれない。平常時でさえ、警官が旅行者にタバコやジュース代をねだるほどモラルの低い場所だ。不安でいっぱいだった。

やっと見つけたタクシーのなかで、皆緊張して無言だった。やがて運転手が気を効かせたのかカセットテープをデッキに入れた。そして、聞こえてきた曲にあっけに取られた。


蒸発のブルース/矢吹健   作詞・作曲:藤本卓
(たびたび削除されている様子。その場合はこのサイト参照)

あなたなしじゃ だめ~、あなたなしじゃ だめ~
ほとほと生きていくのが、嫌になった嫌になった
このまますぐに消えてしまいたい
望みない夢もないこの世から
ああ 夜がささやく
蒸発のブルース

 

ベトナムに無事たどりつけるかわからないなかで、八方塞がりな歌詞を力強く歌う曲が響いている。なんとも不思議でシュールな状況だった。

社会の包容力

昨年、憶えていた歌詞をググってこの曲を再発見した。そしてどうやらこの曲は放送禁止扱いらしいと知った。調べてみたけれど、本当かどうかはわからない。放送禁止扱い「だった」(今は違う)というコメントもあった。

なぜ、この曲が駄目なのだろう。自殺や蒸発を誘発させるというのだろうか。たとえば子どもが聞いたとしても、即問題というほどではないと思える。生きていくのが嫌になったと言っているだけだ。誰も、だから死ぬ、あるいはじゃあ死ねとは言っていない。誰だって、生きるのが嫌になったと言いたくなるときの一度や二度くらいはあるのではないか。(もしそういうことがないというなら、そんな人こそこの曲を聞いてもなんとも感じないはず。)

人の心は不思議なもので、ボロボロになった他人の物語に救われることもある。

単に優越感によってではなく、疑似体験や共感によって、解放されたり癒されたりする。心がしんどいときに暗い話は聞きたくないというのも人の心の一面だけれど、明るい話にさらに気持ちが沈むときもある。人を罵倒したり自分に唾を吐きかけたいほどの気分になるときもある。そんなときは、そうした気持ちが去っていくのを静かに待つしかない。それを何でもかんでもポジティブになどというのは、人は平等だからと手をつないでゴールする運動会の徒競走みたいに滑稽なことだ。

放送禁止にしたところで、社会の本質の何が変わるのだろう。と思って、気がついた。結局、スーパーのパック詰めされた肉のようなものなのだ、と。

自殺者が毎年三万人を超す日本にあって、安易なスケープゴート探しがなされる。表面的な字面ほど批判されやすい。それで、テレビ局などのメディアは批判を恐れて自己規制する。法律や裁判で放送禁止だと命令されたわけでもなく。テレビ局もビジネスなのだ。だから、批判されないようなスマートなパッケージに腐心する。

その影響で社会に表現の多彩さが失われ、自己検閲的なものが行われているとしたら、それはまるで戦争中とかそれに類似した状況じゃないだろうか。

プラスとマイナス、生と死(物理的なだけではなく精神的にも)でバランスをとって、人は生きている。その片方を目に見えない場所に追いやってパワーを得たと思っても、それはバランスを欠いた力だ。

否定的な気持ちが生まれることさえ否定し、ポジティブでなければいけないと個人の心に強要することは、他の理想主義と同じく別の弊害を生むのではないか。

そんなことをこの曲を聞きながら考えた。

カンボジア・プノンペン/外は紛争/photo by
カンボジア・プノンペン/外は紛争/photo byShigeru Nanaumi