不揃いでイイノダ

薬師寺西塔薬師寺西塔(500年後に30センチ沈んで東塔と同じ高さになるという)/photo by 663highland

 

前回のエントリで西岡常一氏の「木に学べ」という本を取り上げた。

はじめて読んだとき20代だったぼくは、すごい人がいるもんだと感動し、自分がいかに目先のことばかり考えているか、もっと自然と寄り添っていかないとなぁ、などと思ったことをおぼえている。

いい本というのはパワーをもっているもので、20年たって今回再読しても今の社会と自分についての課題をいくつも考えさせられた。今日のエントリはそのひとつ。

 

仕事の美学を貫く厳しさ

この本にまず感じるのは、徹底したプロ意識、職人としての意識の高さだ。まさに職人魂といえるものだと思う。そのなかで西岡氏は次のようなことも語っている。

  • どの時代の宮大工も賃金が低くて苦労した。(寺の修理はインフレにあわせて予算をくれるわけではなかったので、他では3円もらえるのに法隆寺では60銭で大工がきてくれなかったり、終戦後もよそは一日60円なのに自分の賃金は8円50銭だった。)
  • しかし自分で国宝を守るために黄金の釘を打ち込んでいるという意地をもっていた。
  • 法隆寺に先祖から専属してきたものは金銭を考えない。お寺に金がなければ自分たちで(経費を出して)修理していこう。お寺がよくなったらまたなんとかしてくれるだろうと信頼関係でつきあってきた。

過去、こうした美学や使命感で仕事をしてきた職人は多いのだろう。ところが、本人は当たり前と思ってやってきたものの家族にとっては少なくはない犠牲だった。西岡氏は息子に跡を継がせようと思っていたが、国鉄(現JR)に入ってしまった。そのとき言われたそうだ。

「終戦後のお父さんの苦しみというものをわたしはよく見てきた。早い話がお父さんのような仕事をしていたら家族を犠牲にする。わたしらはよその人が米を食っているのにカボチャしか食わなんだ、イモしか食わなんだ。そういうことを思うと大工みたいなあほなことはしません」

氏は、専属棟梁は自分で最後になるだろうと語っている。なぜなら1年や2年の仕事のない期間を弟子を抱えたままで給金を払うことができないからと。そして、建築物の構造体としての本質ではなく様式論でとらえすぎる学者や役人が修復工事を指揮していくことになるだろうと懸念・諦念している。

仏教建築に関わる人間がもうけなど気にしてはいけないと西岡氏はいう。まわりもその言葉に感心して、1000年先のことを考えればカネのことなど吹っ飛ぶような気もしてくるだろう。けれど、建立1300年以上の歴史的な国宝、世界最古の木造建築を維持させるための人材に他と5倍や7倍の賃金差に甘んじさせる状況は妥当だったのだろうか?

 

仕事の経済性

現在でも、その仕事自体がかっこいいとか価値があるからと経済性が軽視される職種もたくさんある。芸術、伝統芸能、政治、スポーツ……。

ただ実際問題として生活の糧は必要で、成功すれば金銭的に報われるならまだしも、名誉を得ただけで苦しい生活を強いられるなら、志望者も減り人材の質も沈下していくだろう。

暮らしが成り立つかが人材をふるい分けるフィルターとなる面もある。けれど、その自己犠牲(痩せ我慢?)をいつまでつづけられるのか? 先日エントリの紙芝居業界のように業界全体が失われてしまうならまだわかる。でも法隆寺のように、文化遺産を残すことを前提としているのに個人の自己犠牲に依存した状態は、持続性に明らかに問題があった。

西岡氏の元弟子の小川三夫氏は独立して小規模の法人を造り、組織化・専門化して継続性の問題を解決しようとした。その意味では、目先のことも考えながらの体制づくりは西岡氏の精神とは反してはいない。著書「不揃いの木を組む」はそんな観点で読んでも興味深い。

戦後、もし日本全体の寺社建築の課題として大きく設定して解決の旗を振る人間がいたなら、小川氏のような個人の法人化を待たずして人材の逸失や建築物の風化を防げたかもしれない。(本来ならお上がやるべきだったと思われるかもしれないが、旧文部省と西岡氏のやりとりを垣間見るに無理な要望だろう。)ただそれは今だから言えることで、0から1を思い浮かべるのは難しいことだ。

果たして、「地方の寺社建築でも形だけは昔の様式だが近寄ってみれば実はコンクリのもの」が増えてしまった。

西岡氏の仕事は後世へのすばらしいメッセージと示唆に富むものだ。しかし、その真髄を後世に残そうとするならば、矛盾するようだけれど個人の資質や伝承に頼るような以前の体制ではだめだったのだ。

 

個人と社会の関係

寺社建築の問題を例として考えると、社会(業界)全体として考えるべき問題解決を個人に依存することは、社会としてのコスト負担をしない(と意思決定した)のと同じこと。

それはいろんな事象で日本社会にありがちな構図だ。ふだんは集団主義なのに、はっきり意思決定しないために個人に負担がかかる。あるいは意思決定を先延ばしして誰か個人(あるいは個々の組織)が我慢していると、あとで全体として大きなつけを払う……。

寺社建築にかかわらず社会にとって意味あるものならば、個人へのサポート体制を整えることで飛躍的に発展する可能性もある。上に挙げた職種のなかで、フリーとして動く人をサポートする仕組みはまだまだ発展の余地がありそうだ。ソフト産業、たとえば映画業界の日本とハリウッドの違いとして、個人主義と言われるアメリカの方が個人をサポートする仕組みが整っていて(競争は厳しいけれど)、業界も発展しているという事実は示唆に富む。

ただし、それは別にお上が作るわけじゃない。個人個人の動きから発展してそういう仕組みが作り上げられたわけだ。

1000年先のことを考える建築の話からはじめてなぜハリウッド?というのは書いてる自分でも驚くばかりだけれど、何が言いたいのかというと、リーダーシップとマネジメントという、まだ日本語として昇華されていない言葉がキーであるように思う。特に今の日本人はそこらへんがわりと下手なのだろう。

自己リスクというような表現で個人の選択、生き方、能力に注目が集まるご時世であり、個人がよければそれでいいと考えがちになる。日本社会はともすると集団主義か個人主義かという両極端に振れがちだけれども、多様な個人の生き方を社会としてどう大事にしていくかが今後の課題だ。

規格外のきゅうりをはじくように同質な個人ばかり集まった社会は強くはなれない。豊かでもない。そうではなく、社会や全体にとってどういう役割をもっているのだろうとバランスをもって見ていくことが、個人の豊かさも担保する社会につながるように思う。

それが、個々の木の特質を見抜きうまく組み合わせることで1350年以上ものあいだ風雪に耐える建築物を作った、飛鳥時代の先人の智恵を現代に生かすことでもある。

このエントリを書こうとして、西岡棟梁について「鬼に訊け」という映画のことを知った。今年の2月から全国で順次公開予定らしい。詳しくはこちらをどうぞ。観に行きたいなぁ。

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本「変!!/中島らも 」「ほんまにオレはアホやろか/水木しげる」

ゼロ地点