隣のジョブズさん

隣のジョブズさん

旧アップルロゴマーク

「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」って?

非難されるだろうけど、書いてしまおう。
この数か月、上の言葉を聞くたび、ため息混じりに思っていたことを。
「ケッ、何を言うとんねん、アホくさ」
いや、誰かに喧嘩を売るつもりはさらさらなく、ジョブズにケチをつけたいのでもなく……。

アップル社の元CEOであるスティーブ・ジョブズ氏が昨年10月に亡くなってから、多くのメディアが彼を特集し、たくさんの本が書店に並んでいる。ネットにも彼のトピックがあふれた。彼の発言に感心し、ばかでありつづけるのって大事だねと皆が口を揃えた。けれど、その言葉の真意を理解し、実践する人がどれくらいいるだろう。ただ安易に受け売りしているだけではないか。「ジョブズみたいになれるならばかになってもいい」と思いながら。

でも、もしジョブズが15年前(1998年)に同じ言葉を口にしていたら、ぼくたちはこれほど受け入れただろうか。

率直に言おう。彼が成功者になったから、ありがたがっているだけだ。

たしかに彼がスタンフォード大学で2005年に行ったスピーチは感動的だった。けれども、アホ・バカでありつづけることは、相当な覚悟がいる。人にどう思われようと、どう反対されようと、自分が価値があると信じたことをやりつづけるのだ。

日本だと、確実にまわりから白い目で見られる。

先日のエントリの水木しげる氏は、「ほんまにオレはアホやろか」のなかで、軍隊では敵からだけでなく味方からもビンタの連続だったと回顧している。今の社会だって、肉体的な罰こそないもののそれほど変わらないのではないか。白い目は、凶器にさえなる。

めげずにバカでありつづけるのは、たいへんなんですよ。

 

ある男のこと

以前、ぼくはある男と知り合った。その男は働かずにぶらぶらしていて、中退した大学の授業にときどき無断でもぐりこんだりしているらしかった。金がないので空缶を集めて小銭にかえ、10キロ以上ある場所まで歩いて夕飯をもらいに行っていた。ちょっと同情して声をかけたら、それ以来ぼくの家に居ついてしまった……。

 

話は変わるが、今の職場にとんでもなく乱暴な上司がいた。部下に無茶な命令をするだけでなく、ときに全否定するかのように罵倒する。いったん決めた方針を覆す。人の言葉に耳を貸さない。それが横暴だと同僚からも反感を買っていた。あるとき、結婚していないはずの彼にこどもがいると明らかになった。しかも認知していないらしい。さらには彼も私生児だと判明した。ときどきおやっと思うような発想を持ってはいる。けれど、人としてはどうだろうと批判がますます高まっていた。そんなとき、彼が人事部に紹介して入社した男が経営陣とかけあい、彼は退職に追い込まれた……。

これはジョブズ氏の過去にちょっと手を加えたものだ。まわりの目を気にせず、やりたいことをやり通すというのは、こういうことでもある。

異端者を許容できる社会

ぼくは個人的にMacからPCを触りはじめたので、90年代に時代の趨勢がWindowsに移るときの悲哀をリアルタイムで実感した。

Appleを追われてからのジョブズは、設立したNeXT社の経営もうまくいかず、さんざんな評価だった。

それが、Appleに復帰してiMacからはじまりiPod、iTunes、iPhoneが成功すると、手のひらを返したような賛辞。今ではまるで神様のように崇められている。

近年、日本の電機産業に元気がないからということもあるだろう。瀕死の状態だったAppleを蘇らせたジョブズのような人物がいれば、日本の瀕死産業もよみがえるのではという期待もあるのかもしれない。しかし、もしジョブズみたいな人物を日本で生み出そうとするならば、われわれの文化的特性をよく認識する必要がある。

日本の社会では、自己の本心よりも和を優先し、人間関係第一でうまくやろうとする。合理性よりもコンセンサス重視。少しずつ変わっている様子もあるが、それがずっと好まれてきた文化だ。企業も例外ではない。

同質性や同調性を好む性質。異質なものへの排他性。間違いや失敗を許さない潔癖症・完全主義。人に迷惑をかけないという恥の文化。それらはぼくも自分のなかに感じている。

ところが、それでは小ジョブズ(あるいは小・井深大、小・本田宗一郎でもいい)は存在できない。

何を生み出すかわからず、ただ迷惑なだけの存在かもしれない。そんな、まわりからアホ・バカ・変わり者、果ては変人・奇人呼ばわりされてきた人間を排除せずに受け容れられるかどうか。それには相当な忍耐力が必要だ。

型破り、ではなく、型を破られる時代

即物的な社会では、人が見返りを求めずに行動することは少ない。つまり、何も生み出さず何もメリットを与えてくれそうにない人、あるいは自分に迷惑をかけそうな気配を漂わせた者をそのまま笑って許容し、つきあうことができるだろうか。中島らもさんの家には、そんな食客がたくさんいついていたという。

それができて、はじめてジョブズのような新しい価値を生み出すリーダーがときどき生まれるのだろう。全員がそうなるわけじゃない。そのなかの何人かだ。それ以外は、けったいで、おもろくて、かなり迷惑な人のままでいる。あるいは時代を切り開くほどの影響力はないかもしれないけれど、風穴をあけて息苦しさを減らす存在くらいにはなるだろう。ジョブズ的気質の人は現にたくさんいると思う。でも、目立つと叩かれる。

そうした「変な人」を「常識知らず」と排除していないか、ひとりひとりが胸に手を当てて考えてみる必要がある。

  • 人間関係にヒビが入ってでも自分の信念を主張しつづける人間(企業・同僚は許容できるか)
  • 授業料を払わずに受講する若者(大学は許容できるか)
  • 人格者ではない男(女)がトップの企業・国(クレームを入れずに許容できるか)
  • ほか、いろいろ

なぜジョブズ的な人物が(日本では)あまり表舞台にあらわれないか、問うまでもない。
声を大にして言おう。「せめて、叩くな。放っておけ」

海外を旅していて、日本社会よりもよほど度量が大きいなと感じる場所がたくさんあった。そうしたところは概して発展途上国と呼ばれ、日本みたいに「きちんとした」社会ではなく、ある意味で混乱していた。だからこそ、いろんな状況の人が共存しているという面もあったのだろう。こういうところだから、井深大や本田宗一郎のような人が生まれていくのだろうなと思わされた。

そうならば、これからの日本社会もそうなっていくのだろう。心配せずとも、次のジョブズは、次の社会が作るはずだ。