「正しい」もほどほどになさいませ

「正しい」もほどほどになさいませ

2012年3月9日
紛争勃発前日のスコール/カンボジア、プノンペン
紛争勃発前日のスコール/カンボジア、プノンペン/photo byShigeru Nanaumi

 

違和感の理由

ブログの更新を一週間程休んでみた。ネットを見ていて、何かつまらないなと思ったからだ。

いや、つまらないのは他でもない自分自身のこと。そして、この感覚は以前にも味わったことがあるなと思い当たった。

自分は正しさを求めすぎているんじゃないか。80年代にかけてのイデオロギー論争でも、昨今の原子力推進・反原発や橋下氏に関する論争でも、結局自分は正しい位置に立ちたいわけじゃないんだと思う。誤解を招く言い方かもしれないけれど、正しさばかりを求めるのってつまらない。

メディア上で、誰かと誰かとが論争になる。すると自分がどちらの意見に近いか思い描いて、いつの間にか肩入れしている。もう一方の発言を否定的なフィルター越しに見てしまうようになる。そうやってどんどん自分の立場を固定化させ、柔軟な見方を失っていく。その執着が、息苦しさにも似たつまらなさの理由だ。

さんざん考えてきたけれど、絶対的な正しさなんてどこにもない。そういう「正しい思想」や「自己の正当性」は、自尊心を少し満たすかもしれないけれど、すぐにひっくり返ってしまう強度しか持っていない。相手も含めた「われわれにとって」と考えてみると、たんなる自己肯定と相手の否定に終わるのは望ましい状態じゃない。

たとえば橋下市長の政策にはぼくも関心をもち、今は支持している。これまで大阪のさまざまな問題が解決されていく手応えがなかっただけに、そのリーダーシップに期待している。それでも建設的なフィードバックは必要で、橋下さん自身もそれを求めている。つまり任せて終わりではなく、常にチェックしつづける必要がある。

でも、議論下手と言われる日本人は、そこのところを勘違いしているのではないだろうか。自分が属する集団を決め、そこが正しいという論調が支配的になったらそれで終わり、それで安心というような。

「平和」のために、個人を見殺しにする国?

前にも書いたが、カンボジアで紛争に巻き込まれて、日本という国に感じたことがある。

背景を簡単に説明しておくと、カンボジアでは75年にポルポト政権が誕生して79年に打倒されるまで、極端な政策と粛清によって100万人ともいわれる人々の命が犠牲となった(※人数に関しては諸説ある)。そこから内戦が続いていたが、91年のパリ和平調印と国連の暫定統治機構(UNTAC)によってようやく平和が戻りつつあると認識されていた97年の出来事だった。

第一首相と第二首相との権力争いで武力衝突が起こり、被弾した空港は閉鎖され、市街戦によってあちこちで黒煙があがった。国際社会は色めき立ち、各国が自国民を救済すべく空軍の輸送機などを派遣する態勢を整えはじめた。

当時はネット環境もなく、衛星放送くらいでしか情報を得られなかった旅行者にも次第に状況が伝わってきた。ところが、日本ではその頃になってもなお国会で小田原評定がつづいていた。自衛隊による在外邦人救出が是か非かという問題だ。現行法制下では、自衛隊は航空機による邦人輸送は可能だが、邦人救出はできないという。なぜなら「安全が確保されていない」から。

いやいや、安全なら誰も助けは求めませんよ……

しかし、社民党や共産党は邦人をどう救出するかではなく、「憲法に反する」などという論点に終始して反対した。民主党も懸念を表明するばかり。彼らは「平和憲法遵守のためには日本人を見捨てろ」と言っているに等しかった。「お国のために犠牲になれ」と言った前の戦争と同じ思考回路ではないか。

不確かな情報の錯綜するなか、現地の日本人は右往左往した。市街戦の流れ弾が民家に着弾し、日本人の商社マンがひとり亡くなっていた。7月5日に銃撃戦の爆音が轟きはじめてから二日後の夜のことは忘れられない。安宿の外階段の暗い踊り場に日本人旅行者が集まり、今後どうするか議論になった。さまざまな意見のなかで皆が一致させたのが、日本人は自力でなんとかするしかないという諦めにも似た思いだった。そして、紛争勃発当日にベトナムビザを得ていたぼくは覚悟を決め、8日に自力でベトナムに脱出した。

結局、事態が収束しはじめた12日になって、当時の与党自民党の橋本首相の指示で航空自衛隊のC-130型輸送機がタイの海軍基地へ派遣された。しかし約440名いたとされる邦人はタイ軍用機によって救出され、自衛隊機は一人たりとも助けられぬまま17日に撤収したという。

ぼくは、それまでの平和ボケのなかで省みることのなかった自分の姿と日本という国の現実を見たように思う。

「正しい」の向こう側

問うべきは自衛隊を派遣しないことではなく、トラブルの拡大をどう防ぐか、あるいはシビリアンコントロールをどう担保するかではないだろうか。そこを考えずに「邦人救出を名目にした自衛隊の海外派兵は許さない」と騒ぎ立てるばかりでは、憲法をタテに「緊急事態は起こらない」と思考停止してしまうのと同じだ。それでは実際に国民を守ることはできない。

「平和」「人権」を唱えながら当事者意識なく在外邦人を見捨てる主張を行うのは、その平和と人権が実は他国に支えられている現実が見えない夢想家でしかない。現実にそぐわないなかでタテマエを守ろうとしたところで、やがて現実の力に破られる。

それは、事故が起こらない前提で備えを怠っていた原発の問題と似ている。少し話が変わるが、検察・警察・司法は絶対的に正しいと疑ってこなかった意識も、最近次々と明るみに出る不祥事などによって修正を迫られている。つまりは、どんなに立派な目的があったところで、運用を間違えば組織も道具も害を及ぼすものになるだけ。あるいは、いざ失敗や事故が起こっても、責任者が不明で最終決断を行うリーダーシップがなければ、解決の道は開けない。

日本人お得意の失敗の仕方がある。東電の原発運営しかり、80年代バブル、あるいは第二次大戦や今後の財政の問題しかり。みんなで渡れば恐くない式に進んでいくうち、失敗を 拡大させる。うすうす失敗とわかりながらも、あるいは懸念があっても「ない」というタテマエを崩せない雰囲気が醸し出される。誰かがうまくやってくれるだろうとなんとなくもたれあいながら、誰も責任をとらない。

だからこそ、うまく議論をつづけながら双方が当事者として方向性を修正していく必要がある。反対派が意見を言えないような空気にするのは自分の首を絞めるだけだ。どっちが「正しい」かを求めて結論づけてしまうのではなく、そこからが問題なのだな、と「当事者」の自分を省みた次第。

脱出翌日の空/ホーチミン、ベトナム
脱出翌日の空/ホーチミン、ベトナム/photo by Shigeru Nanaumi

参考:自衛隊法

(在外邦人等の輸送)
第八十四条の三  防衛大臣は、外務大臣から外国における災害、騒乱その他の緊急事態に際して生命又は身体の保護を要する邦人の輸送の依頼があつた場合において、当該輸送の安全について外務大臣と協議し、これが確保されていると認めるときは、当該邦人の輸送を行うことができる。この場合において、防衛大臣は、外務大臣から当該緊急事態に際して生命又は身体の保護を要する外国人として同乗させることを依頼された者を同乗させることができる。

 

■カンボジアの記述に際して、以下のサイトを参考にさせていただきました
http://www.jcie.or.jp/japan/gt_ins/gti9709/ah3.htm
http://japannavyclub.org/usasizuo10.html
http://tamutamu2011.kuronowish.com/haheinennpyou.htm
http://www.hh.iij4u.or.jp/~asabe/cambodia/cbshig.html

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