「世界」はひとつじゃない

「世界」はひとつじゃない

2012年2月25日

夜の露店/ボリビア、ポトシ

 

最近の若者は?

去年、ふたつ続けて事故現場に出くわした。

ひとつ目は、晩秋のある夕方だった。
大通りを自転車で走っていたら、歩道近くに人が倒れていた。ふたりの男がそばに立ち、ひとりは携帯で話している。通りすぎてから、気になって引き返した。 道には少し年配の男性が仰向けに横たわり、額が切れてぱっくりと大きな口が開いていた。そばのふたりはどちらも通りがかりらしく、ひとりは25前後の若者、ひとりは60がらみのおっちゃんといった風情だった。若者の方が救急車をすでに呼んだという。おっちゃんだけが倒れた瞬間を見ており、前のめりで頭から転倒したらしい。倒れている男性は5、60に見えたが、ハーフパンツにトレッキング風シューズという軽装で、ベルトに旧いカセットテープのウォークマン。放心した状態で目をあけている。

「ふらふらーっと歩いとったんや。ポケットに手を入れたまま。それで手もつかず、ステーンとこけよった。そんな歩き方しとるアホなやつがあるかいなぁ?」

60がらみのおっさんがぼくに同意を求めるように言った。
その責めるような口調に、今さらしょうがないし本人にも聞こえているのにと思いながら、倒れた人にすぐ救急車が来るからと声をかけた。寒くないかと聞くと寒いというので上着をぬいで下半身にかけると、若者風の男性もジャケットをぬいでおっさんにかけた。60がらみのおっちゃんはただ痴呆老人みたいな足取りだったとか話している。 やがて救急車が来て、男性は運ばれていった。

ふたつ目も、初冬のある晩のことだ。
近所の四車線の通りを自転車で走っていたら、対向車線でドンという大きな音がした。すぐそばのコンビニの前に居合わせた人が集まっていく。 対向車線の暗がりにスポーツタイプの自転車と人が転倒していた。信号のない場所を植込み越しに横断しようとした人が、走ってきた自転車とぶつかったらしい。スポーツウェアを着た自転車の持ち主は大丈夫のようだった。倒れた人のそばで、ひとりの若者が携帯でたぶん119番に連絡し、話している。別のひとりが声をかけはじめた。ぼくともうひとりとで、走ってくる車に片側車線で通行するよう合図していると、別のひとりがコンビニで小型の懐中電灯を買い、参加してくれた。不思議な感じだった。若者しかいなかったわけではない。通りかかる中高年層はいたし、道路の反対側にはパチンコ屋があり、おっちゃん連中がこっちを伺っている。けれど、近づいてこようとはしない。

そうした出来事に偶然連続して遭遇し、若い世代が駄目なわけではないじゃないかと思った。

ツイッター上の擬似世界

話は少し変わるが、最近遅ればせながらツイッターをやりはじめて面白いと思うのは、各人のタイムラインの特徴だ。

ツイッターをしていない人のために少し説明すると、ぼくのページ(タイムライン)にはぼくがフォローしている人(Aさん、Bさん、Cさん)の投稿(ツイートと呼ばれる短文)が時系列に並ぶ。あるいは彼らがフォローしている人のツイートがリツイートという形でぼくのタイムラインに流れる。まったく面識のない人が、つぶやきでつながっていく。興味深いのは、第三者のタイムラインも眺められる点。ぼくはAさんのタイムラインも、フォローしていないDさんのタイムラインも見ることができる。逆もまたしかり。(厳密には違う部分もあるが省略)

ツイッター上での情報のやりとりが、簡略化しすぎを承知で日常生活に例えれば、その人がどんなテレビを見てどんな雑誌や本を読み、誰とどんな会話をしているかを覗くように見られる。映画でいえば、部分的なトゥルーマン・ショーというところか。うーん、うまい例えが思いつかない。

もちろんツイッターはほとんどが匿名で、そうしたことはお約束のうえで使われる。各人で用途も違い、友人知人とのコミュニケーション主体の人、情報取得のみだろう人、情報商材サイトへの誘導目的、いろいろだ。地を出すことも、わざと別人格を演出することもできる。情報の取得目的でも、考えや嗜好の似た人をフォローする人、考えの相反した人もフォローしている人と様々。

それで思ったのだ。これはある種の擬似世界観だ。

各人それぞれの世界

人は自分が認識した関係性を総称して「世界」「世間」「社会」などと呼び、そこで生きている。

先日のエントリとも関係するけれど、河合隼雄氏が言及していたように、

(心理療法で)相談にこられた方が、父親がどうだったとか、友達にこんなやつがいるとか、あるいは、同級生でいやでたまらんやつがいるとか、考えてみれば他人の話をしている、しかし、実はその人の話をしているわけですね。だから全部他人の話でありながら、その人として、まさに自己につながってくるわけです。

 

つまり、「世界」とは「自己」であると言える。最初に挙げたように、たまたま出くわした出来事によって、ぼくの世界では「日本の若者は劣化していない」存在となる。同じような出来事が重なると、それを拾い上げるフィルターが強化されていく。ツイッター上では、そのフィルター強化が可視化された状況を観察できる。

最近では、ある人にとって東北は放射能に汚染された世界で、青森から沖縄に運ばれる雪に恐怖と憤りを感じている。タイムラインから、その人の不安ばかりが高まる様が見えるようだ。自発的にやっているとはいえ、さぞかしつらいだろうと思う。でも、福島原発から青森までいったいどれだけの距離がある? 放射線量の測定値も嘘の情報とスルーされ、明らかに正常な判断力を失っている。けれど、これは放射能への恐怖やツイッターというツールに限った特殊な例ではない。

「世間が狭い」という言いまわしがある。小学校でグループで一緒にトイレに行く女子生徒(男もいろいろ同じ)にとって、「世界」はそこに収斂されていく。会社にしても同様で、夜店のまわりの暗い空間が黒くつぶれてしまうように、その「世界」は、情報の偏向や思考の特性によって狭くなりがちだ。でも、窮屈でつらくても、そこから離脱する恐怖や疎外感とペアだったりするので我慢する。さらに日本はもともと和を尊び、極度に同調性を求めがちだ。それらはいい面もあれば、視野狭窄と息苦しさをもたらしもする。

バスの窓から小便する姿

中国の寝台バスで、窓から小便を放つ男に出くわしたことがある。バスの床に子どもに小便をさせる母親もいた。田舎の公衆便所に入ると、入口から床一面が大便に埋もれている。さまざまな暮らし方をする人と出会い、自分とはまったく違う思考様式に驚愕する。あるいは予期せず美しいものとも遭遇する。

それらは日本の常識とかけ離れていて、毎日16時間働く日々からは予期できぬものだ。世界の広さと多様さに気づかされる。テレビ番組でもっと過激なアフリカの部族について見たことがあっても、その記憶は皮膚感覚を伴わずにするりと抜け出ていくものだ。一方、自分はこうすべきだとかこうしなければならないという思考に随分縛られていたことに気づく。人は自分が何に縛られているか案外自覚できていない。

今を息苦しく感じているならば、問おう。この「世界」は、フィルターのかかった狭い思考のなかにあるのではないか。この「世界」がすべてだと自ら追い込んでいないか。

なかには逃れられない関係性もあるだろう。でも「世界」はガチガチに固まっているわけじゃない。だから、もし今の自分を壊したくなるほどの苦しみなら、さっさとそこから出た方がいい。自己を否定し、絶望する必要はない。外にはさらに広い「世界」が存在し、それもまた自分が存在してこそ存在するのだから。

夕景/ウルグアイ、コロニア・デル・サクラメント