「サピエンス全史/ユヴァル・ノア・ハラリ」から何を読み取ったか

読書は、低コストで知識を得られる圧倒的なすばらしいツールだ。

でも、何を自分が考えたのか振り返らないと、ただ「面白かった」というぼんやりとした感想で思考が止まってしまうことが多い。(小説なんかは読んでて楽しければいいけれど。)

それで、昨年末・年始に読んで、近年で最高の本だと思った「サピエンス全史/ユヴァル・ノア・ハラリ」について、何が最高だったのか、何を読み取ったのか、メモをもとに整理してみた。

歴史書? 経済書? 哲学書?

この本を読み始めてまず驚かされたのが、人間の感情や幸福といった一見あいまいな検証の難しいものに踏み込んだ記述が多いことだ。よくある歴史書のように、もっと淡々と、人類の歴史を俯瞰した新しい事実的発見がまとめられているものだとばかり思っていた。

たしかにそうした知見がえられてわくわくさせられるのだけれど、ユヴァル・ノア・ハラリの視点はより本質を穿っていた。

過去の歴史が人間(集団だけでなく個人も)の幸福や苦しみにどう影響を与えてきたか、もっと考察が必要だと述べているからだ。

人類に大きな変化をもたらした3つの革命

人類の歴史を俯瞰するにあたって、ユヴァル・ノア・ハラリは、歴史を3つの革命の観点で見ていく。

3つの革命とは、「認知革命」、「農業革命」、「科学革命」だ。

認知革命

人間(ホモ・サピエンス)は、集団としてある特質を持っていたからこそ、地球上でもっとも強い生き物になった。それは、多数の見ず知らずの者同士が、柔軟に協働できるという点である。

協働するために共有したのが、虚構、つまりフィクションだ。

そのフィクションとは、架空の何かであり、宗教、神話、法律、企業、国家、お金と呼ばれる。秩序やルール、価値観や常識、人権もフィクションだ。
すべて人間の想像したストーリーである。

たとえば肉を食べれば生化学的に腹は満たせるが、紙や金属では腹は満たせない。
しかし、他の動物は見出さない価値を人間はそこに見出した。通貨は、全体の虚構(ストーリー)による結束をより強めた。人々は紙幣によって経済的に結びつく、より柔軟な社会システムをつくり上げた。

その前提として、全員が同じフィクションを信じる必要がある。実在しないものをあたかも実在するものであるかのように信じ、人は動く。

繰り返しになるが、虚構によって、虚構を全員が信じることによって、われわれは動物としての個人の能力を超えて、大きなことを成し遂げてきた。集団で同じ虚構を信じ、協働する能力こそが、サピエンスを食物連鎖の頂点に押し上げた。

それが人間社会におけるいわゆるシステムというものだ。大勢がシステムに従っているから、つまり大規模に協力するがゆえに、混乱なく、見ず知らずの者が便利に効率的に暮らすことができる。

農業革命

しかし、集団としてのパワーは増大しても、それによって個人が幸せになるかはまた別の話だ。

たとえば農耕によって、人類は狩猟採集の生活から、定住する生活を選択せざるを得なかった。朝から晩まで作物の世話に追われるようになったからだ。
延々と草取りをして重い水を運び、ときに畑や穀倉を守るための戦いを強いられた。

狩猟採集民として狩りや採集で暮らしていたときよりも、農耕民として定住をはじめたときのほうが、暮らしは厳しくなった。
手に入る食糧の総量は増えたが、よりよい生活や余暇には結びつかなかった。

起こったのは人口爆発と限られたエリート層の誕生だった。

平均的な農耕民は、狩猟採集民より苦労して働いても、見返りは少なくなった。
一人あたりの食糧は少なくなり、単一の食料生産は旱魃や病害をもたらし、餓えや栄養失調が農耕民を襲った。
生活は困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。

農耕と定住は人類の個体数を増やし、全体を豊かにしたが、個人にとっては労働の負担が増え、苦しみも増やすこととなった。

ホモ・サピエンスは、小麦や稲やジャガイモといった植物群を栽培化したのではなく、それら植物群によって家畜化された。

科学革命

農業革命によってもたらされた苦しみを消し去ってくれたかに見えたのが、科学革命だった。

ホモ・サピエンスは、科学というツールで大きな力を手に入れた。それによって、農耕に従事する人口は劇的に減った。
科学は、他の虚構を形作り、大きな影響を与えてきた。

たとえば「進歩」という考え方がそうだ。科学によって物事が改善しうるのと同じく、経済のパイ(富の総量)も拡大させることができると考えたことで、経済は爆発的に拡大した。

また、「信用」という概念も経済を拡大させた。まだ存在していない想像上の財をお金に替えることで、物理的に存在するお金の何倍もの経済取引をもたらした。

また、「資本主義」というイデオロギーもそうだ。人々は経済成長が永遠に続くと信じ、自分の利益の追求が全体の富と繁栄の基本であると信じている。そこでは、利己主義はすなわち利他主義となり、富の奪い合いのような罪悪感から人々を開放した。

ホモ・サピエンスの誤算

では、科学は万能なのだろうか?

人々は歴史を通じて計算違いをしてきた。
自らの決定がもたらす結果の全貌を捉えきれなかった。

ふたたび古代の狩猟採集民を例にとると、彼らには餓えや栄養失調がなく、感染症被害も少なかったが、農耕民となると、より苦しむことになった。定住して収穫を増やしたものの、定住によって子どもが増え、分け合える小麦が減り、多くの粥を子どもに食べさせ母乳を減らしたことで免疫系が弱まり、定住が感染症をもたらした。単一食料への依存が旱魃のリスクを高め、穀倉を盗賊が襲わないよう、壁の建設や見張りの負担を増やした。

では、暮らしが厳しくなったにもかかわらず、なぜ農耕民は狩猟採集民に戻らなかったのか? それは、人口が増えて元に戻れなかったのと、農耕民は数の力で勝ったために、数の少ない狩猟採集民を駆逐したからだ。また、何世代にもわたる小さな変化の連続が記憶を失わせたためだった。

人々が行った小さな改良が、生活を楽にするはずだったのに結局は負担を増やしてしまうことにつながる。より楽な暮らしを求めたために、大きな苦難を呼び込んでしまう。

また、歴史の鉄則にあるように、「贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる」こととなった。

サピエンス全史から読み取るもの

人間の幸福

科学に関しては別のエントリでもっと掘り下げたいが、強く印象に残ったのが「幸福」に関するくだりだ。

冒頭で触れたように、ユヴァル・ノア・ハラリは、過去の歴史が人間の幸福や苦しみにどう影響を与えてきたか、歴史理解の欠落をうめる必要があると主張する。そして、幸福に関する従来の宗教やニューエイジ運動、はたまた自由主義の定義・考察に関して批判的であり、唯一、仏教の立場にのみ理解を示している。といっても、それは日本に今ある仏教ではない。

手前味噌だが、ぼくがまだ20代のとき、自分の生き方に迷って旅をした。果てしない満足と拡大の追求に疑問をもちながら、何をすれば自分が幸せで、何を求めて生きていけばいいのかわからなくなったからだった。

その旅の過程については、ゼロ地点というサイトに書いたが、旅の前、人間の幸福についてもっとも真理を突いていると感じたもののひとつが、(日本の仏教ではなく)原始仏教に関する文献だった。

人間は、次の新たなストーリーを作り上げられるか

ホモ・サピエンスのこれまでの革命がそうであったように、システムは個人の幸福など考慮に入れずに変化していく。

皮肉なことに、そのシステムは全体(としての経済のパイや集団の構成人数)を大きくしても、個人の視点からみればほんとうに幸せにつながるかはわからない。

各変化が小さなものであっても、全体として非常に大きな流れを作るのがわれわれの共有するシステムであり、われわれの共有する虚構だ。

だからこそ、個人として、自分の幸福とは何なのか、しっかり見極めていかねばならないと思う。見極めながら、システムにたいするスタンスを作っていきたい。安易に依存するのではなく。

そのシステムが短期的に良く見えたとしても、長期的な視点で見てみれば、かならずしも人間を幸福にするものではないことも多いのだと認識しておく必要がある。

過去を振り返って気がついたときに、それが自分を不幸にしていたとならないように。

親や祖父母の世代よりも、暮らしは便利になった。ボタンを押せば涼しくなり、クリックであらゆる情報が手に入り、あらゆるモノが届けられる。しかし、便利は忙しさを加速し、心ここにあらずの状態を作り出す。この暮らしのなかで、もっとも大切にしなければならないものは何なのだろうか。

ホモ・サピエンスはついに、われわれの生物学的な特徴を人工的に操作する能力を得た。ホモ・サピエンスには、なりたい自分になれる日が近づいている。

しかし、自分の幸福が何かがわからないわれわれは、なりたい自分になどなれない。
システムによって、「なりたい」と思わされ、そうさせられるだけだ。

人間は、自分を真に幸福にできる次の新たなストーリーを作ることができるのか。
それが、われわれにとっての課題だ。