子どもの問い–悪いことをしていないのになぜ殺されるの?

週末、実家に帰省したとき、NHKで大河ドラマ「平清盛」初回分の再放送を見ていた。そのとき、隣にいた子どもが発した質問に考えさせられた。

白河法皇の子を身ごもった遊女(あそびめ)が、鳥羽天皇に嫁いだ養女の具合が悪いのは彼女の腹のなかの赤子(清盛)のせいだとされて捕らえられる場面がある。遊女に赤子が生まれ、養女が回復しても、白河法皇は遊女を殺すよう命じ、彼女は何本もの矢を射られて崩れ落ちる。それを見て、ぼくの子どもが言った。

「やっつけられたの?」
「やっつけられたんじゃなくて、殺されたんやで」
「……?」
「死んじゃったんや」
「悪いことしたから?」
「悪いことはしてないけど」
「悪いことしてないのに、なんで殺されたの?」
「……」

どう説明しようか困ってしまった。

ウルトラマンや戦隊ものをいつもテレビで見ている三歳の息子にとって、悪い怪獣や悪の帝国はやっつけるのが当たり前だ。戦いごっこをせがんできても、やっつけられる側には決してなりたがらず、ぼくをニセウルトラマンや悪の首領に指名する。そして、彼には、やっつけるとはほとんどイコール殺すことなのだという、ヒーローものが明示しない真実がまだわかっていない。

それでぼくは、「悪いことしてなくても、殺されることがあるんやで」とだけ答えた。この世の中にはそういうことが厳然としてあるのだと思いながら。

平安末期のような乱世でなく、今の世の中でも同じだ。無差別殺人や事故や災害はいうまでもないが、殺されるまでいかなくとも、それに似たようなことはいくらでも行われている。

たとえば先日のオリンパス。
上司のコンプライアンス違反をコンプライアンス窓口に通報した社員が閑職に追いやられ、過去の財テク損失の飛ばしを究明しようとした英国人社長が解任された。

自分の地位や秩序が脅(おびや)かされたり、築いてきたものを否定されると、人は恐怖をおぼえ、攻撃する。部下の言論を封殺したり、未来を抹殺するほどの圧力をかけたりする。

そこには、個人としての行為とともに、組織としての問題がある。

「平清盛」では、白河法皇の個人的動機のようにわかりやすく描かれていたが、守ろうとしていたものは世間からの法王としての体面だけではなく、彼を取り巻くお付きの者も含めた、院政の権威だと考えると、それらは分かちがたい。

つまり、社員の生殺与奪の権を握った者だけが「悪」を働くわけではなく、法皇を守るために矢を放った護衛も権力機構の一部であり、会社組織で「秩序」を乱す社員と戦う平の法務担当や人事担当者と重ねてみれば、何ら変わらない。飛ばしの実務を担当した財務部の社員もそうだ。それぞれの立場にはそれを遂行する論理と組織への同調圧力がある。

平忠盛(遊女が産んだ清盛の育ての父となる)は、白河法皇に遊女を斬れと命じられ、自分の妻にしたいと嘆願するが、武士の分際でと一蹴される。そうして、遊女が殺されようと抗えず従うしかなかった忠盛も、盗賊の討伐などの穢(けが)れを引き受けることで恩賞を得ており、その機構の一部だ。

これは子ども向けのヒーローもので単純化された正義と悪という図式では収まらない。

オリンパスの組織としての行為を内心ではやりすぎだと感じていたまわりの同僚や管理職もいただろう。それでもなお、見ぬふりをしてやりすごした。彼らに責任はないのだろうか。イラク戦争で、化学兵器の排除という正義を失った米国の攻撃を看過して同盟関係を享受した日本はどうだろう。

そして、そうやって強い者に巻かれることで利益を得ながらも、ぼくたちは電車で席を譲り、酒席で同僚を励まし、地震に心を痛めて義援金を送る。

どこからが悪で、誰が悪人で、誰が殺したのか? 

平忠盛の父正盛は忠盛に声をかける。「此度のことは、平氏一門を滅ぼしかねなかった。それがあの女ひとりですべて引き受けたのだ。逆らえば大事なものが犠牲になる。武士は王家に仕えておる。そのために太刀を帯びておる。そこにはなぜなどと疑いを差し挟む余地はない」

このセリフは、現代の組織と個人の関係にもあてはまる。

ドラマの最後、犬同士の喧嘩で死んだ飼い犬に呆然となった清盛に、「弱いゆえに負けたのじゃ」と忠盛が言う。すると清盛が、父は法王に取り入るために自分を育てたのか、王家の走狗なのかと問う。忠盛は言い放つ。

「今のお前は、平氏に飼われている狗(いぬ)だ。おれのもとにおらねば生きて行けぬ、弱い狗だ。死にたくなければ、強くなれ!」

死にたくなければ=生きるために。そんな忠盛の言葉は、今のぼくたちが「生活のため」とさらりと言い切る以上の葛藤と苦悩を背景にしている。

ぼくたちは、一見平和な日常のなかで穢れを引き受けることも意識することもほとんどなく暮らしている。それは自分では手を汚さず、武士のことを穢れと言ってのけた貴族のような、幸運で、しかし卑怯なフリーライド(タダ乗り)なのだ。

自分の子どもが成長して、実は平安時代とさほど変わらない無慈悲な社会が存続していると気づいたとき、「どうして」と問われて自分は親としてどんな答えを返せるだろう。

子どもが生まれたとき、これからの時代の混乱を予感し、とにかく生き抜いてほしいと願ったことが思い返される。しかし、フリーライドしながら「生きるために強くなれ」と口にする自分の言葉に、はたしてどれだけの重みと力強さがあるだろうか。

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