夏期休暇で田舎に滞在した。小田舎という場所だけれど、そこで実感したのは、これから遊ぶなら田舎だなということだった。
都市と比べて自然が豊富で、土地も安く、都市ではできないことが楽しめる。創造性発露の場としての田舎の経済的効能といえるかもしれない。単純な田舎賛美をするつもりはないけれど。
で、その体験から、最近考えていることを敷衍してみた。
まず都市と田舎を対比すると、今後も都市はより巨大に、緻密に、高度化されていくだろう。
このまま高齢化が進み、2008年をピークとした人口縮小がつづくと、田舎のインフラ維持はますます難しくなるし、人口は都市に集中せざるを得なくなる。都市には多くの人間を集める魅力がより集積され、財政的には、今後さらに周辺の田舎との格差がひろがっていく。
でもその一方で、都会がますます隙間のない、窮屈で息の詰まる場所になっているのは確かだ。物理的にも精神的にも。
都市生活で考えるべきなのは、自由を享受しているつもりでも、強制的に反応させられているだけなのかもしれないということだ。カゴのなかのネズミが滑車のなかを走るように。
ぼくたちもまた、いつの間にか都市のカゴのなかでくたくたになっていないか?
メカニズムなどという言葉が社会の描写に使われたりするのを見聞きすると、そこに暮らしているのは機械ではなく人間なのにとげんなりする。その「メカ」に人が合わさざるを得ない現状があって、チャップリンがモダンタイムスで皮肉った工場のように、今では都市自体がそうなのだと思う。ニンゲンがシステムの一部であるかのごとく、ニンゲンが都市というシステムの一部なのだ。
それを維持するために、ぼくたちは多大な犠牲を払っている。そして、現システムの維持ありきの発想があちこちでほころびを見せ始めている。
だからこそ、と思う。都市の過剰さが(繁栄の代償としての)不健康の元であるように、その反対で田舎の何もなさがこれからはもっと「あり」なものになる。
そのベクトルはもちろん都市と同方向じゃない。地方が東京をコピーして東京チックなものを作るのではなく、まず自らの魅力を自覚するところにスタート地点はあるのだろう。
豊富な自然と安い土地。それだけで多種多様な遊び方がある。
誰かの作ったシステムのカゴのなかで走るのではない、自律志向の遊び。
消費とも生産ともつかない遊びだ。
遊びだけでなく、「生き方」もそういう傾向がひろがっていくのではないかと思っている。
(つづく)