1997年にアジアを旅していたときのこと。
あるとき、タイバーツが暴落した。
当時、のほほんとした旅行者であったぼくは、経済については為替レートで感じる程度。ネットカフェもなく、テレビも新聞もほとんど目にしなかった。
6月から旅をはじめて、中国にいた10月の終わり頃のことだ。
瀘西という町へのバスのなかでタイ人カップルと知り合った。バンコク市内でカフェをやっていたが経営状態が芳しくなく、最近郊外に引っ越したのだと男が話した。商売あがったりで仕方なくハネムーンに来たという。
「タイ経済、やばいよ」
男は表情を曇らせたが、それがタイバーツの暴落に端を発したアジア経済危機と呼ばれるのは後のことだ。彼らのような、嵐の際に身を潜められるわりと裕福な人々はまだよかった。
ウィキペディアより
信用を失ったバーツの下落は止まらず、為替レートは危機前24.5B/$だったが半年後には50B/$を下回った。この後、タイ証券取引所(SET)の時価総額指数であるSET指数は357.13(1997年の最高値は858.97、史上最高値は1994年の1753.73)まで下落し、翌年には危機後最安値である207.31(史上最高値の11.8%)を記録した。
それまで好景気を謳歌していたタイ経済はあっという間に崩壊し、タイでは企業の倒産・リストラが相次ぎ失業者が街に溢れかえった。
次にぼくがタイを訪れた1999年、工事のとまった何本もの幽霊ビルが、鬱屈した暗い目のような虚洞を開けてバンコクの町を見下ろしていた。窓や壁のない吹きさらしのまま、放置されていたのだ。
ワタミの渡邉美樹会長がブログで懸念するように、市場は先に動く。
さすが経営者だけあって、考え方がシンプルで実利的だ。
もちろん単純化しただけでは漏れてしまうものもある。けれど、「失われた20年」と言われるようにもはや利益調整型では何も進まない。
ただ、たぶん人ははっきりとした恐怖を覚えるまで事実を認めたがらないのだと思う。もちろん自分もそうだ。
そうした隙を市場は見逃さず、ある日突然信用が崩壊する。国債の金利が急上昇しはじめる。アイルランドやギリシャのように。
今回はまたもとに戻るかもしれない。けれど、次は雪だるま式に大きくなってまた襲ってくる。
すると、ジリ貧ではすまず、強制的に改革を迫られる。ひどい痛みをともなって。それならば、自ら改革したほうがいい。今ならば、ほんとうに大切だと皆が思う5のうち、3は残せるかもしれない。けれどその日がくれば、1か2しか残せない。今、皆で議論し、実利的な判断をしたほうがましだ。
1997年の末に日本に戻り、5冊の日記をマックで起こし、旅行記にまとめた。それを2000年からメルマガにした。その頃、世間は新たな景気に沸き立っていた。ITバブルだ。
それでずっと放っておいたのだけれど、今日の世の中の閉塞には、1997年当時の自分と似た感覚をおぼえて仕方がない。それで、当時の原稿をぼくがほんとうに訴えたいことにまとめなおした。400字の原稿用紙換算で1500枚が900枚になった。その間、友人たちとも会わず、ひとりで当時の自分の分身の言葉を削った。
これからは、当事者のひとりとしてゼロ地点から本質に近づき、何が大切か声を上げ、耳を傾けていきたい。