日本の明日にあるもの

2012年1月6日

夜、道路を通るときいつも、豊かな国なんだな、と思う。

誰もいない道路工事中の現場の、養生の丁寧さだ。
照明の点滅する柵に囲われ、敷石のはがされた歩道に緑の覆いがかけられている。

でも、これからの日本は、これが当たり前ではなくなるのだろうなと思う。

あちこちの国で、そうした来るべき日本の情景を目にした。
たとえば南米パラグアイの首都アスンシオンで、中心地の通りに大きな穴があいていて、「へぇ、これでOKなんだ?」と感心した。交通量の激しくないところだからなのか、もしかしたらすぐに補修されるからなのか。
その後確認したわけではないから、どうなったのかはわからない。

よく覚えているのは、そこが白亜の立派な建物の近くの道で、注意を促す囲いも何もないまま、ぽっかりと穴が開いていたからだ。

アジアでも、そういう情景は珍しくなかった。
街灯もない暗い道に水道工事中の大きな穴が当たり前のように放り出されていて、よそ見していていたら落ちてしまう。そうした個々の例は必ずしも一つの要因にあてはまらないのかもしれない。たとえば予算というよりは国民性とか慣習だとか。

しかし、そうした多くの国で、日本のような丁寧さが可能かというと、とんでもない。いちばんの要因は、やはり経済だ。たとえば上記のパラグアイでは格差も大きく、スラムもある。柵や照明で囲っても、盗まれてしまうだろう。

暗い道に囲いのない穴? 
「日本ではありえない」と思われるかもしれない。
でも、日本の当たり前は、他の国にとってはそうではない。

大きなコストがかかることが、今の日本では当然のごとく行われている。しかし、国は予算の半分が借金で、地方も然り。ドラッカーが「イノベーションと起業家精神」で述べたように、人口構成は予測がもっとも容易で、今後日本では急激に高齢化し、現役世代が減っていく。

よほどドラスティックな政策を決断しない限り、今のレベルが維持できないことは明らかだ。道路の補修の頻度は下がり、工程も削られる。その上を走るバスの便も減る。予算がないのだから、選択の上で何かを削らざるを得ない。それでも、現状を当然と思い込んだ既得権者は強く抵抗する。「ありえない」と。

海外で極度の貧困を目にすると、身につまされる。
たとえばバングラデシュのダッカで、大きなゴミ収集箱のなかに人がうごめく光景に出くわす。原型を留めるものがおそらくすぐ持ち去られてからも、子供も大人も指でかきわけ、残飯や紙切れやゴミクズを漁っている。

それを見ていたのは、たまたま日本に生まれた僥倖を当然の所与と認識していた自分と、傍観者として振る舞う自分だ。そして、もしそこで手を取られ、同じように生活せよと言われたら、やはり抵抗するだろう。

今の日本も同じだと思う。今を当然の所与として、借金を先送りする。自分のものではないかのようにたとえばユーロ危機を眺め、変化に抗っている。
今の若者は草食系で頼りないなどと大人は言うけれど、大人たちの方がよほどグロく醜悪な姿をさらしている。

外に出て、日本とはまるで違う国を旅して気づく。
なければないで、済んでしまうことがこれほどたくさんあったんだ、と。
そうしたものを手放せば、多少の不便と引き換えに、かえって精神的なわずらわしさから解放される。
驚くほど身が軽くなり、まだ見ぬ場所へ一歩を踏み出せる。

大事なのは、自分にとって、何が大切かを自覚することだ。
みじめなのは、中途半端に今の快適さにしがみつくときだけ。

今の日本は、良くも悪くも、いろいろなものが過剰だ。これからは、好むと好まざるとにかかわらずその過剰さがカットされていく。
でも、そんな場所にこそ、新たな機会ができ、イノベーションも生まれる。

たくさんの国を旅して、明日の日本を見た気がするけれど、かといって絶望にとらわれたわけではなかった。
逆にはっきりとした根拠もなく、日本への信頼感が生まれた。

明日にあるのは、新しい今日だ。

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