ヤンゴン、ミャンマー(2005)
(前回からのつづき)
夜、ヘンネリと夕飯を食べようとスーレーパゴダ近くまで歩き、無料だと言うので入ってみた。雨はやんでいたが、人々はパゴダの前で濡れた地面にひざまずき、あるいは黄金の仏像に向かってロンジー姿で祈っている。ジーンズをはいたヘンネリもしゃがんで何度か地面に手をつけて祈った。
「何を祈ってたの?」
「ビジネスがうまくいくためにね。ぼくの友達は、ぼくの手相を見てぜったいにうまくいくって言ってくれてるんだ」
人々が少量の金箔を買い、それを儀式のように滑車に乗せてパゴダまで運び献納している。
「それにしても、どうしてみんなあんなに熱心に祈ってるのかな」
「祈れば祈るほど返ってくるし、幸せになることができるからさ」
「寄進も?」
「寄進すればするほど、もっとたくさんになって返ってくるんだよ。それがブッダの教えさ。ぼくもビジネスがうまくいったらパゴダを建てたい」
ミャンマーでは子どものころに一時的に出家する慣習があるらしく、ヘンネリも短いあいだ仏門に入っていたという。ひとしきり話し終えると、彼はビールを飲みたいと口にした。でもぼくは言葉を返さなかった。この地の仏教の戒律では飲酒はよくないらしいとすでに聞き及んでいたので、自分は敬虔な仏教徒だと得意げに語ったすぐあとにビールはないだろうと思ったのだ。
「今日はやめにしておこう」何かを感じたのか彼は言った。「せっかくパゴダで祈ったんだし」
彼と一緒にいながら、たかられているような気もしないではなかった。親切にすれば返ってくるという、彼の無邪気な言葉の底には、利益を望むからこそ親切にするという含みがあった。もしぼくが彼に何も返さなければ――食事代や茶代を出さなければ――彼はぼくに親切にするだろうか。
しかしそんな思いも、薄暗い道端に出された低い机で食事しながらさまざまな話をしているうちに薄れていった。九七年のデモ当時、とても熱心に運動に参加してくれた外国人がいたそうだ。そのカナダ人はデモに参加して国外退去させられたが、アメリカのパスポートを取りなおしてまた入国してきたのだという。
「彼にはほんとうに感謝してる」ヘンネリは低い声で言った。「彼は、自分の危険をかえりみずに、ぼくたちのためにしてくれた」視線を合わせた彼の目はうるんで見えた。「でも政治を変えようとしてもこの国は何も変わらない。だから、まずぼくは外に出たいんだ」
途中でラジャが加わってすぐ、横の車道で衝撃音が響いた。車をバックで駐車させようとして、後続車にぶつけてしまったようだ。後続車のウィンカーカバーが割れただけでたいした破損ではなかったが、それぞれの車の男四人が激しい口論をはじめた。当てられた方の二人は怒りあらわに相手の車を蹴りつけ、乱暴に車を発進させて去ったと思ったら、しばらくして大型の携帯電話を手に戻り誰かに連絡しはじめた。やがて大型のオフロード車が道路脇に停車した。
「VIPだよ」ヘンネリが言った。「そりゃあ、あれくらいで四千チャット(約十一ドル)は高いよ。でも、ぼくなら払う。彼はバカだから言い返してよけい騒ぎを大きくしてしまった」
やってきたのは政府関係者らしい。男たちの話は長くつづいたが、たぶん金で解決するだろうとヘンネリは予想した。さらに、車の修理代だけでなくやってきたVIPにも金を渡さなくてはならなくなったという。ぼくたちはしばらく様子を眺め、その場を去った。
翌日のぼくの出発を見送ってくれるとヘンネリは言っていたが、来れなくなったと昼間にラジャに連絡があったそうだ。
ヤンゴン、ミャンマー(2005)
三週間ちょっとぶりにぼくがヤンゴンに戻った翌日、彼は食堂の前の低い椅子から立ち上がり、笑顔で手を振った。朝、ラジャから彼が来るとは聞いていた。でもたぶんぼくに会いに来るのではないのだろうと思っていた。約束はしておらず、散歩に行こうと表に出たところだった。
ヘンネリのその後は前日ラジャに聞いていた。あれから無事タイに行けたのかどうかやはり気になっていた。
「まだ」とラジャは言った。
彼を北部の町で見かけたという話を同じドミの旅行者から耳にしていたから、その答えは半分予想していた。
「じゃあもうタイに行くのは無理なんやろ? ビザの有効期限があるから」
「大丈夫。あと一ヶ月残ってる」
それはこのあいだヘンネリから聞いた話とは食い違っている。彼は、もう一月しかないと言っていたはずだ。でも、もしかしたらぼくの聞き間違いだったのかもしれない。
「昨日は来てたんだけど」とラジャは言った。「彼を呼びましょうか?」
「いいよ」とぼくは答えた。「彼は彼がすべきことをすればいいねん。ぼくは彼が元気でやってるのか知りたかっただけやから」
けれど彼はやってきたのだ。たぶん別の目的を持って。だから気が進まなかった。その直感を捨てきらないまま、ぼくはヘンネリのところに歩み寄り、今から出かけるのだと伝えた。
「何しに?」
「ただぶらぶら」
「何時に戻ってくるの?」
「わからへん」ぼくは言葉を濁した。「友達と行くから」
友達とはドミの同室の旅行者のことだ。ところが市場ではぐれてしまい、ぼくがひとり戻ってくると、ヘンネリはまだ同じ食堂にいた。別の椅子で、別の紅茶を前にして彼は言った。
「紅茶でもどう?」
「飲んできたところやねん」
「じゃあ、店のなかにとにかく座るだけ」
やはりヘンネリはまだタイには行っていなかった。「助けを必要としていた」フランス人の男としばらく北部を一緒にまわり、二日前に戻ったところだという。けれど収入には結びつかなかった。フランス人はキャッシュカードしか持っておらず、最初に両替した三百FECをみやげ物やら食事やら交通費やらでぜんぶ使ってしまったからだった。(もちろんヘンネリは食費や交通費などを出してもらったが。)
先日知り合ったタイの男からその後たびたび電話があり、いつ来るのかと問われるのだとヘンネリは言った。しかしまだ費用をまったく用意できていない。
「ぼくだって約束は守りたい。でも、どうしようもない」
「そのタイ人っていうのはどんなやつ?」ぼくは訊ねた。「ほんとに信用できるのかな?」
「わからない」ヘンネリは首を振った。「ほんとうはどんな人間なのか、信用できるかどうかまだわからないんだ。でも、信じることにした」
なぜなら成功したければそうするしかないからだ、と思った。彼が信じたいのはその男ではなく、彼自身の成功なのだ。けれど往々にして、そんな時に人は判断力を失い、騙される。
で、どうやって旅費を作るのか。彼は自分の道は自分の力だけで切り拓いてきたと自負していた。前回三五〇ドルのうちの二五〇ドルもの額を外国人からもらい、友人からも援助されたにもかかわらず。今回もそういうことを起こしうると信じていた。そんな自負心がなければ、この国では大胆なことなど何もできないのかもしれない。たまたま人のいい日本人と出会ったから一度行けただけ。そんなふうには考えなかった。
「コウジとは連絡が取れない。彼は今インドかネパールあたりにいるから」とヘンネリは言った。「彼がここにいれば用意してもらえるだろうけど、送金手段が発達していないから無理だよ」
今回必要な三百ドルのうち、ヘンネリが用意できた資金は五十ドルあまりで、あと二五〇ドルをどう用意するというのだ。
「コウジみたいにポンと出してくれる人はそんなにおらへんで」
「もらったんじゃない、投資だよ」
「彼のお金が投資やと思ってるの?」
「ぼくは返すつもりさ。ちょっとずつね」
そうじゃない、たぶん彼は君に友情を感じたから金をだしたんだよ……。
(つづく)
ヤンゴン、ミャンマー(2005)
(注)この紀行は1999年のもので人名は仮名です。文中の登場人物と写真とは関係がありません
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