ドラッカーの著作は、他のビジネス本とは次元が違っている。
本書は、就活生はもちろん、現代組織の中で働くあらゆる人にとって示唆にとむ内容だろう。ドラッカーのエッセンスは企業のマネジメント層だけでなくもっと広範に知られてもいい。数年前に話題になった「もしドラ」のイノベーションはそこにある。
ドラッカーと出会えた幸運
個人的な話になるが、これはぼくが同時代でドラッカーに出会った最初の本だ。初版は1993年。当時のぼくは20代半ばの営業マンで、人間的に未熟なのに、自分の数字だけでなくプレイングマネジャーとして部下を抱え、ただただ苦悶する日々を送っていた。
自分はなんとか数字を取ることはできた。しかし、部下にどう指導したらいいのかがわからない。どうすれば営業目標を達成できるのか。当時の営業本などは生保などのトップセールスによるものが多く、印象に残る名刺交換のやり方やら相手の関心を引き付ける話法やら、いかにも汎用性のないものばかりだった。しかもびっしりと精神論がくっついている。ところが、行動レベルで型にはめる指導や精神論では実際に数字はなかなか伸びない。営業マンそれぞれに個性や特性の違いがあるからだ。結局、表面的な部分をなぞらせても、リーチの短さは変わらないから成果に結びつかない。
さらに、99%は断られて失敗しつづけることが営業プロセスの一部だと頭でわかってはいても、断られ続けるうちにボディブローのように心に堪えてくる。ときに仕事の意義まで疑い、リングでノックダウンされたような気持ちになる。だから少しでも高次元の(と当時のぼくは思っていた)経営や社会的視点から自らを捉え直したい。そうして、なかばモチベーション維持のために本を乱読するなかで、ドラッカーは別格だった。こんなすばらしい本と著者に出会えてラッキーだったと思う。
この後数冊が書き下ろされたけれど、基本的には本書、あるいは「新しい現実」の内容を踏まえて別の角度から説明している。というのも、この本は2010年から2020年に出現するであろうと著者が予言した社会に関するものだからだ。
ドラッカーの慧眼
さて、日本びいきだった著者は、本書日本版への序文で日本にたいして以下のように警鐘している。
日本は、知識社会への移行に関して最もよく準備されている。しかし、新しいニーズに応える体制になっていない。たとえば教育の分野で、継続学習のための機関として大学を発展させる必要性が十分に認識されていない。(日本の高等教育は、いまだに成人前から就職前の若者の教育に限定されている。それは19世紀のものだ。)さらに、世界経済における日本の地位は、依然として、主に古い産業界におけるリーダーシップに基づいている。たとえば自動車や家電。いずれも、主に1920年代にルーツをもつ産業である。
日本の成功は、欧米にとって「既知」のものを優れた方法で行ったためだった。そのために、新しい時代―ポスト資本主義の時代―が要求するものは日本に対して厳しいものとなる。これまでの成功をさらに磨きあげるのではなく、全く新しいことを行わなければならない。
こうしたことが、19年前、まだまだ日本企業の存在感が圧倒的だった時にさらりと書かれていたりする。本書の内容には衝撃を受けた。週末、帰省していた実家から勤務地に車で戻るときに途中の本屋で買って、深夜のファミレスに入って休憩がてら読み始めたら朝方まで止まらなかったのを覚えている。ただ、当時は認識不足だった。社会が変わるだろうというのは理解できても、資本主義が圧倒的に変質してしまうという箇所はよく理解できなかったのだ。
さて、紹介は一部の抜粋に留めておくが、ぜひ全体を読まれることをお勧めしたい。
●知識社会の到来
イデオロギーとしてのマルクス主義を破壊し、社会システムとしての共産主義を破壊したのと同じ力が資本主義をも老化させつつある。(P31)すでに到来しているその社会が、ポスト資本主義社会である。(P31)
現実に支配力をもつ資源、最終決定を下しうる「生産要素」は、今日、資本でも、土地でも、労働でもない。それは知識だ。(P29)知識労働者は、自ら「生産手段」を所有する。(P31)ポスト資本主義社会における支配的な諸階級は、「知識労働者」と「サービス労働者」である。(P29)知識の仕事への適用たる「生産性」と「イノベーション」によって価値は創出される。(P31)
古今東西、「知識」とはつねに「存在」に対して適用されるものだった。しかるに一夜にして「行為」に適用されるにいたった。まず「道具」「工程」「製品」に適用され、「産業革命」がもたらされた。次に「仕事」に適用され、「生産性革命」がもたらされた。第三の段階として、「知識」そのものに適用され、「マネジメント革命」をもたらした。(P50)
新しい意味における「知識」とは、効用としての知識、すなわち社会的・経済的成果を実現するための手段としての知識である。(P87)
製造業、農業、鉱業、輸送業における肉体労働者の生産性の向上は、もはやそれだけでは富を創造することはできない。今日以降、問題となるのは、非肉体労働者の生産性である。そしてそのためには「知識の知識への適用」が不可欠となる。(P83)
深刻な問題は、最近100年間における生産性の爆発的な向上をもたらし、先進国経済を生み出したものは、「知識」の仕事への適用だったという事実を、ほとんどわずかの人間しか認識していないところにある。(P82)
新しい社会は、専門化された知識と、専門家たる知識人を基礎として構成される。そして、彼らには力が与えられる。しかしそのとき、価値やビジョンや信条にかかわる基本的な問題、すなわち、社会をつなぎ、人生に意味を与えるものすべてにかかわる問題が発生してくる。さらにまた、全く新しい問題が発生する。それは専門知識の社会において、真に「教育ある人間」の要件とは何かという問題である。(P95)
今や、知識とされるべきものは、それが知識であることを行動によって証明しなければならない。今日われわれが知識としているものは、行動にとって効果的な情報であり、成果に焦点が当てられた情報である。その成果は、人間の「外」、社会と経済、あるいは知識そのものの発展にある。しかもこの知識は、成果を生むために高度に専門化していなければならない。(P94)
知識社会への転換期が終わるのは、2010年ないしは2020年となる。(P24)
●知識社会の組織とマネジメント
つまるところ、成果を生み出すために「既存」の知識をいかに有効に適用するかを知るための知識こそが、「マネジメント」である。(P87)経営管理者(マネージャー)とは、「知識の適用と、知識の働きに責任をもつ者」(P91)
マネジメントは企業に限定されない。(P88)マネジメントとは、あらゆる「組織」に共通する組織特有の機能である。(P104)今やあらゆる先進国社会が、「組織社会」となった。すべてではないにしても、社会的な課題のほとんどが、組織によって遂行されている。(P107)
社会やコミュニティや家族では、発生する問題はすべて扱う。しかし組織においては、すべての問題を扱うことは「多様化」である。組織において、多様化は分散である。多様化は、企業、労組、病院、地域のサービス機関、教会のいずれを問わず、組織として成果をあげるための能力を破壊する。組織は「道具」である。他のあらゆる道具と同じように、組織もまた、専門分化することによって自らの遂行能力を高める。(P105)
組織の成果は、つねに組織の外部にある。(P107)
組織は、一つの目的に集中して、はじめて効果的な存在となる。(P97)組織は、一つの使命しか持ってはならない。明確かつ焦点のはっきりした共通の使命だけが、組織を一体とし、成果をあげさせる。焦点の定まった明確な使命がなければ、組織はただちに組織としての能力を失う。(P106)
今後、組織がますます知識労働者の組織となっていくにつれ、組織から組織への移動はますます容易となっていく。(P109)組織は、その最も基本的な資源として、すなわち適格で献身的な労働者を求めて互いに競争する。(P109)
個々の専門知識は、それだけでは不毛である。統合されてはじめて生産的となる。そしてこれを可能とすることが組織の役割であり、存在理由であり、機能である。(P107)
成果をあげる組織では、使命と任務が明確に規定されている。しかも組織としてあげるべき成果も、明確かつ誤解のないように定義されている。そして可能な限り、測定できるような形において成果が定義されている。(P108)
知識組織においては、あらゆる人間が、成果から目標へのフィードバックによって、自らの仕事を管理することができなければならない。(P191)
グローバリズムやイノベーション、知識労働の生産性などについてもかなりのページが割かれている。本書中にあるコンセプトはこれからの社会にまだまだ応用できるし、自らの仕事内容に照らしながら読むと本質的理解も進むだろう。オリジナリティの感じられない新刊が本屋に並ぶなかで、本書の中古などアマゾンで送料込みでもタダのような値段だ。
さて、最後はまた個人的な話で締めたいが、本書を読んでぼくが確信を深めたことがあった。それは、営業の肝とは「KSF(キー・サクセス・ファクター:当時はこの言葉は知らなかったけれど)と情報の関係性」だということ。つまり……いや、長くなるのでやめておこう。その後何度か転職し、業界は違ったがこの効果を示すことができ、知識社会への移行をますます実感するようになった。
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