遊びが仕事になっていく

遊びが仕事になっていく

2016年3月26日

前に、以下のエントリを書きました。

 

 

結局表題の「もし10代の自分を今の自分が教育できるとしたら?」は持ち越したのですが…

もし今、目の前に10代の自分がいたら、こうアドバイスします。

どうしたらいい大学やいい会社に入れるかではなく、これからは遊びがどうしたら仕事になるかを考えるべき、と。

「でも、遊んでて仕事になることなんてあるの?」

働くことの意味が今ひとつピンとこない10代の自分は疑問に思うでしょう。今のぼくはこう答えます。

「つまり、どうやったら仕事で遊べるかということ」

「遊びじゃないから仕事なんじゃないの?」

「おまえ、10代やのに頭カッチコチやなっ」

 

好きなことは仕事にすべきでないとは言うけれど

 

好きなことは仕事にすべきてはないというのはよく聞く話ですよね。仕事にすると、好きという純粋性が失われてしまうし、好きというだけでは食っていけないよ、と。

それとは一見対極にあるように見えるのが、就職希望先が公務員というケース。

 

世相を反映してか、就職希望先が公務員という若者にたびたび出会います。動機をたずねると、安定したいからとのこと。恥ずかしげもなく口にされる「安定」という言葉に、おいおいって思うのです。「あんたを安定させるために公務員の仕事が存在してるのと違うやろ」って。(こういうのが公務員になると、自分の仕事をキープするために余計な事業をつくって税金を無駄遣いしていくんやろうなー。安定に執着する精神構造こそが不安を増幅することに、気づいてないんやなー。)

 

でも、好きというだけでは食っていけないという「好き」と、安定のために公務員になりたいという「安定」には、共通点があります。

どちらも視点が自分側の一点のみにあり、自分のことしか見えていないところです。

 

これからの仕事のかたち

冒頭で「遊びがどうしたら仕事になるかを考えるべき」といったのは以下の理由からです。

  1. 仕事のかたちが大きく変わっていく
  2. 仕事と遊びを分けて考えることが無意味になりつつある
  3. 仕事は誰かに準備・お膳立てされものではなく、作っていく(さらに捨てていく)ものになりつつある

AIやITによって、仕事の価値がシフトしていくのは必然の流れです。しかし、旧態依然とした政治システムや事なかれ主義の企業経営が、本質の変化を気づきにくくさせています。

 

「日本企業は技術も資金もあるが、時代の変化に遅れがち」という鴻海(ホンハイ)社長の言葉が、まさに日本人の仕事の現状を示唆しています。
(鴻海は、アップル製品などの製造を請け負う世界最大のEMS(電子機器の製造受託サービス)で、売上高15兆円(2015年)の台湾企業。)

旧三洋電機の責任者もいいます。「昔は製品開発の提案でOKがでるまで社員から主任、課長、部長と根回しして決済をとるまで一ヶ月かかった。(ハイアールに買収された)今は今日言って明日からできる」

 

「和をもって尊しとなす」が、結果的に古い考えと機構を守り、新陳代謝を阻害しています。容れ物を壊さないよう皆が努力するために、中身の劣化がなかなか白日のもとにさらされません。そうこうしているうちに、シャープや東芝のように、外見は立派だけれど中身はボロボロという実態が暴露されるというわけです。

 

これからの教育のかたち

 

教育も同様です。従来のように、学校で勉強をして、なりたい職業を探し、資格をとって、組織に入り、再教育されながら一人前になっていくというのではスピードが遅いのです。ハーバードMBAのケーススタディでさえ、すぐ時代遅れになります。そうした旧来の教育システムとカリキュラムでは変化に対応できなくなりつつあります。

 

今の日本の教育システムは、もともと明治期に兵隊を大量生産するために設計されたもので、容れ物自体が古くなっている感が否めません。引きこもりの子どもたちが世間で問題視されていて、大人たちはなんとか登校させようと腐心しています。でも、じっさいに問題なのは大人たちで、子どもたちの方が世の中の変化に正しく対応しているのかもしれません。

ただ、スポーツ指導に関しては旧来の教育システムの外で行われているものが多く、親や子どもは指導者や場所を選びやすいのです。そうした分野にすすめる子どもたちは、変な大人に妨害されにくくてラッキーです。

 

さて、サッカー選手や野球選手は仕事として成り立っています。大人たちも存在価値を認め、子どもたちはスター性や金銭的報酬に夢を抱きます。

でも、あえて言えば、サッカーや野球ってただのゲームで、遊びの延長でしょう? 観客のお腹を満たすとか、病を治すとかではなく。しかし、ゲームも極めればプロとして成り立ちます。人の心を動かすエンターテイメントとして。それが遊びなのか仕事なのか区別することはもはや無意味です。

 

では、なぜ他の遊びは商売として成り立たないものが多いのでしょう? そこに、エンターテイメントとして成立するまでの発展の余地があるからです。
つまり、さっきの「好きだけでは食っていけないという好きと、安定のために公務員になりたいという安定」のように、視点が自分側の一点から多重視点になかなか発展していかないところです。

何が言いたいのかというと、子どもたちに、遊びって極め方によっては仕事になるんだよってことをもっと考えさせた方がいいんじゃないかということです。一部のプロスポーツや芸能にかぎらず、別に虫取りでもカルタでも何だっていいんです。遊びの延長で人を面白がらせ、感動させられれば、商売になるということ。

ITなどの技術革新によってその可能性はさらにひろがっています。

失敗の価値

もちろん、遊びを仕事にしようとする多くの試みは失敗するでしょう。でも、遊びは失敗から発展していくもの。失敗があるからこそ学びがあって、次の変化が生まれていきます。
サッカーや野球選手においても、プロを目指す子どもたちのほとんどはプロにはなれないでしょうが、その周辺を支えることはできます。

別の仕事をもちながらファンでありつづけるというだけではありません。サッカーや野球をどうしたらもっと多くの人が楽しめるか、考え工夫していくことで、市場をひろげることができます。そこにどんな魅力があるのか。それは、夢中になったことのある自分が知っています。その経験と失敗が、人を楽しませるときに生きてきます。

心からコミットすること。それが遊びを仕事にする意義のひとつです。遊びにはたくさんの効用があります。

 

同じように、これまでは「食えなかった」ことも、仕事として、産業として成り立つようになるかもしれません。その一方で、社会が変貌すると、旧来の思考で古い価値を提供する労働者は淘汰されていきます。たとえば「運搬」を提供する馬車のドライバー(御者)が消えたように。

 

「じゃあ、何の仕事がなくなって、何の仕事が残るの?」

「それはわからない。たぶんこれはなくなるだろうというのはある。でもいつそうなるかはわからないし、残りそうなものを予想していても、それもなくなっているかもしれない。それに、今は想像もつかない仕事がたくさん生まれているはず」

 

誰かの作った基準で消耗しきってしまう前に

 

わかるのは、20年前に今が見通せなかったように(東芝やシャープの経営が傾くなんて想像できなかった)、20年後もまるで違う世界になっているはずということだけ。大会社はいつの間にか傾くし、大学だってどんどんつぶれていくでしょう。安定の象徴である公務員だってどうなるかわかりません。海外の例をひくまでもなく、日本の地方自治体の公務員はすでにそうなりつつあるではないですか。

問題は、その未来予想があっているかどうかではなく、そんな不確かな未来のために、今を多大に犠牲にしていないかということです。未来に備えて努力することを否定するわけではありません。ただ、大人のいうことに粛々と従っていても、将来は保証されないよということ。日本のこの失われた25年は、それを証明した時代でした。ぼくを含めて大人たちのほとんど誰もが、未来を見通せなかったのです。

 

問題解決型の仕事と同様に、遊びは仕事になります。
赤ちゃんだって、幼児だって、いろんな仕事をもっています。大人からするとそれは遊びといえるものかもしれませんが、それは生きていくための仕事です。小学生だって、その延長です。中学生だって、高校生だって、大人だって。

 

徹底的に楽しんで、そのなかから価値を発見するのです。まず自分の心を動かし、そのあとで、その感動をどう共有するかを考えればいい。極めた遊びは、人と共有されるべき価値があるとぼくは思っています。

でも、あくまでも今のぼくがそう思うだけで、10代の自分に教育することなんてできないのですが…。