初夏の暑さにうだうだ思う

初夏の暑さにうだうだ思う

2012年7月11日

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ジャイサルメール、インド(2005)

暑いな、と心のなかでつぶやく日が多くなってきた。思考が鈍くなってくる。ぼうっと、何も考えずにいる時間が増える。でも、どちらかというと幸せなのかもしれない。何かを常に考えてあくせくしているよりは。

南国の国々の人々がのんびりおっとりとした人が多いのもわかる気がする。いや、アジア各国を訪れたときにそうわかっていたので、それを再確認している。うだるような暑さのなか、まったくエアコンのない場所ですごすと、ほとんど何もできなかった。日本人は勤勉だと思ってきたが、それは国民性というより環境の問題なのかもしれない。旅しながら、一日にせいぜいひとつの行動でOKだと思う毎日だったのは、期間が長くて間延びしたのもあるが、気候の影響も大きかったのだ。

暑いのになぜ無理にこんなことを考えているかというと、以下の理由からだ。

原発問題に関して、賛成反対と意見が二分しているようだが、人々の実生活を観察していると、実はそんなに違いがあるのかなという気がしている。使っている電気製品にそれほど差があるようには見えないし、節電にいちおう協力はするものの、それは足りないからであって、根本的にライフスタイルを変えようというほどの人は多くないのではないか。

もし即時の原発停止を望むならば、本質的には電力の消費を大幅に減らすしかない。火力・ガス発電プラントの増強や自然エネルギーによる発電を誰かに求めるのは他力本願すぎる。ちなみに、ぼくの実家では太陽光温水器を使っていたので、自然エネルギーのすばらしさは実感してきた。2004年から2005年にかけて一年間世界旅行をした際、風力発電などの風景へのぼくの反応に妻はよく笑っていた。かといって、それらで電力需要をどれだけまかなえるか考えれば、やはりまず自分の消費行動を変えるのが筋だろう。

つまり、どっち派だ何をどうすべきだという主張よりも何よりも、原発事故の前と後で電気代の請求金額がどれだけ減ったか、あるいは電気の消費量そのものの方が、各々の真の立ち位置をはっきり示している。

そう省みると、我が家の電気代など、恥ずかしくておおっぴらにできない。それでも、ささやかながら生活を変えてみる。休みの日はPCを開かないでおく。ネットもオフライン。だからツイッターもやらない。暑かろうがクーラーは使わない。だから思考も緩む。ブログの更新? ええやん、そんなもん放っとこ放っとこ……。

単純計算では、これまで約三割を原子力発電でまかなっていた分、家庭でも三割の使用量を削減すればいい。しかし、いざやってみると、三割どころか一割でもなかなか難しい。自宅で細々と節電する他には、電気を食う商品の消費をやめるくらいしか思いつかない。たとえば暑い日にコンビニで買うアイスや冷えたペットボトル飲料、スーパーで冷蔵保存された食品。それらすべての消費も積もり積もって自分の消費電力なのだ。

以前のエントリで、戦後の使用電力量の推移グラフを掲載したが、それはつまり日本国民がいかに電気への依存を高めてきたかというライフスタイルの変化を示すものだ。

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忙くて時間がないときは惣菜を買って夕食にする日があり、温めるために電子レンジやオーブンを使う。あるいはウォシュレットや空気清浄機や食器洗い機や諸々の電化製品に囲まれた現代の生活。でも、その依存を地道に削っていかねばとうてい消費電力は減らせない。それを継続的にできるのか?

さらに、これまで培ってきた科学的態度をそう簡単に覆していいのかとも思われる。ぼくは科学万能主義者ではなく、科学の発展と幸福の総体が比例するとは考えない。それでも科学的態度は大切だと思う。たとえば車ならば、40年前と今の性能の違いなど比べるべくもないのに、原発は基本的に当初のままだった。車検のときに車を買い換えるように、原発も最新型にリプレースしていたら事故は起こっただろうか? 誰もそんな疑問を抱かないのだろうか。40年前の交通事故による死亡者は年間15000人以上で、昨今は5000人弱まで減ったとはいえ決して少ない人数ではない。イラク戦争と比較すると、有志連合軍の累計死者数と同程度がたった一年で亡くなっている。昭和三十年から去年までの統計では、交通事故死者数は累計57万人を超えた。同じ尊い命が失われても、車を棄てて生活すべきという意見は聞かれない。

それだけ、ぼくも含めて大多数の人々は、いったん手に入れた便利さや安楽をそう簡単には捨てられないということだ。そんなぼくの実感には、1980年代の苦い記憶がつながっている。その頃、アメリカやソ連(現ロシア)など核保有主要5カ国は約7万発の核兵器を保有(1986年、wiki)していた。1984年から「世界終末時計」は核戦争3分前のまま変わらず、今の原発騒動のようにマスコミや知識人が騒ぎ立てていた。ぼくには事態の緊迫性を吟味する術もなく、危機感だけがいたずらに煽られたが、大人たちはそんなことはすぐに忘れた様子で、後にバブルと呼ばれる狂騒のなかで踊りまくったのだ。

これは余計ながら若者に言っておきたいが、深刻な顔で自説を述べながらその問題に具体的行動で向きあっていない大人たちの言など真に受ける必要はない。もう少しすれば、大人たちによる梯子外し感がもっと目につくようになるだろう。

さて、細かい話は省くが、諸々を考え合わせると、旧型の原子炉は廃炉し、第三世代の原子炉と入れ替えるのが、ベストとはいえなくとも今はましな解なのかなと思える。ただし現存の電力会社は解体し、そのバランスシートから原子力プラントの資産を取り除く。それとて、放射性廃棄物の中間貯蔵地と最終処分に関してはっきりと国民で合意し決断しなければ、将来につけを回すフリーライドにすぎない。では第四世代に期待するのか、別の発電手段のイノベーションを待つのか。いや、今の政治のリーダーシップでは到底期待できない妄想だな……。

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ジャイサルメール、インド(2005)

こうなったら、まったく別の方向に妄想をひろげてみよう。いっそのこと、サマータイム制とあわせて一週間にもう一日休日を増やして、何もしない日としたらどうだ。つまり労働時間を20%削減する。その日は、極力家でだらだら寝そべってすごす。何もしない。効率とか充実とかいった場所からはとことん離れる。メシ? 安売りのバナナでも食っとけ。一日くらい何も食わんでも大丈夫。どうしても足りない人手は仕事にあぶれた人に補ってもらおう。連休にするとまたレジャーとか忙しいことになるから、水曜あたりにポツンと一日。南国の木陰で日がな一日寝転んでいる人のように、ただひたすら無為に。あれ? これって、ぼくの父親の世代の休みの日とちょっと似てなくもないな。でもテレビは見ない。パソコンも開かない。ケータイもいじらない。それがどんなものかはぼくはよくわかっている。バックパックを抱えて旅行していた日々に体験したから。GDPも当然減るだろう。でも、それでいいのではないか。もしほんとうに原発廃止を望むのであれば。

暑さのなかで、それも悪くないかもなとぼんやり考えてみる。うん、悪くないアイデアかも。無のなかの有が見えてくるかもしれない。いや、なんとなくぎすぎすした雰囲気の漂う日本国民全員にそのすばらしさを味わってほしいくらいだ。価値観の転換は、ライフスタイルの転換とともにある。なーんて、冷えたビールで緩んだ意識でうだうだと妄想しながら、夜は更けていく。

20120711160707ジャイサルメール、インド(2005)

参照
http://www.moj.go.jp/shingi1/shingi2_070207-7-11-1.html

◎関連エントリ

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